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『鎌倉殿の13人』第24回「変わらぬ人」一途に生きた範頼と大姫

鎌倉幕府第2代執権・北条 義時(小栗 旬)が、伊豆の弱小豪族から武家の頂点に上り詰めていく物語、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。6月19日放送の第24回では、源 頼朝(大泉 洋)の異母弟・範頼(迫田 孝也)と娘・大姫(南 沙良)、それぞれの悲劇的な展開が描かれました。

本稿では、第24回「変わらぬ人」のストーリーを振り返るとともに、大姫の生涯、範頼ゆかりの地について紹介します。

第24回「変わらぬ人」のストーリー【ネタバレあり】

曽我兄弟による頼朝暗殺未遂事件の余波に揺れる鎌倉。範頼に「鎌倉殿の座を狙った」と謀反の疑いがかけられていました。範頼が朝廷へ送ろうとしていた書状が頼朝の手に渡り、義時は(頼朝が亡くなったとの報による)混乱を収めるためだろうと弁護しますが、頼朝は許しません。

身の潔白を証明するために奔走する範頼は、比企 能員(佐藤 二朗)に取成しを依頼するため出向いたものの、保身に走った能員により面会は叶わず……。範頼の妻が能員の姪にあたるため、義時はこの一件に比企氏が絡んでいるのではないかと範頼に訊ねますが、「すべて私の一存でやったこと」と起請文を献上。しかし、頼朝の厳しい詮議、また側近・大江 広元(栗原 英雄)が起請文の署名に「源」と名乗っているという言いがかりに、「もう結構にございます」と範頼は自ら身を退きます。

比企尼(草笛 光子)の説得もあり、死罪を免れた範頼は、伊豆・修善寺に幽閉。曽我事件への関与を疑われた岡崎 義実(たかお 鷹)は出家し、ひとまず決着となりました。

翌建久5年(1194年)8月、後白河法皇(西田 敏行)の崩御によって入内の話が消えていた大姫との縁談のため、頼朝の甥・一条 高能(木戸 邑弥)が京から下向。当時、一条家は都で力を伸ばしていました。しかし亡き許嫁・冠者殿こと源 義高(市川 染五郎)を慕い続ける大姫は、頼朝に無断で縁談を断ってしまいます。

「冠者殿の記憶が消えてなくなるのが怖い」と、義高の父・木曽 義仲(青木 崇高)の愛妾だった巴御前(秋元 才加)に会いに行った大姫は、巴の励ましに前へ進むことを決意。頼朝と政子(小池 栄子)に、再び入内の話を進めてほしいと申し出ます。

建久6年(1195年)2月、頼朝が政子・大姫・万寿改め頼家(金子 大地)を伴って上洛。丹後局(鈴木 京香)に謁見した政子と大姫でしたが、丹後局からの侮蔑、罵倒に、都での現実を突きつけられます。夜間に寝所を抜け出した大姫は、雨に打たれてそのまま病に倒れました。

鎌倉へ戻っても、病から回復することなく衰弱していく大姫。2年後、一筋の涙をこぼし「死ぬのはちっとも怖くないの。だって、死ねば義高殿に会えるんですもの。楽しみで仕方ない」と母に言って瞳を閉じました(享年20歳)。

大姫の死、自らに降りかかる不幸を呪詛のせいだと思い込む頼朝。梶原 景時(中村 獅童)配下の善児(梶原 善)が、範頼を襲いました。

本編ラスト2分の衝撃!広がる範頼ロスと大姫ロス

兄上と幕府を支え続けたい一心だった範頼と、亡き許嫁を慕い続けた大姫。一途に生きた2人の「変わらぬ人」が悲しい最期を迎えました。

源平合戦では平家討伐軍の総大将として活躍した範頼。ドラマでは曲者ぞろいの坂東武者の調整役も担い、視聴者にも蒲殿(かばどの)と呼ばれ、愛されている登場人物の一人です。比企 能員が風邪(仮病)で臥せって会えないと言う能員の妻・道(堀内 敬子)に、裏切られたと気づきながら「風邪は寝るのが一番。どうぞお大事に」と気遣うところも、誠実で真面目な人柄が出ていました。義時の推察どおり、焚きつけてきたのは比企氏なのに。それでも詮議の場で比企氏のことを一切口にせず、目に涙を浮かべながら退いた範頼に心が痛みました。

一方、大好きだった冠者殿への想いを抱きながら成長した大姫。わずか6歳で小刀を自分に突きつけながら、父に冠者殿の助命を懇願した姿が忘れられません。

巴御前の「面影が薄らえるということは、冠者殿が前へ進めと仰ってるのですよ」など、すべて書き起こしたいほど巴の台詞は素敵でした。巴の言葉、和田 義盛(横田 栄司)との仲の良さから、入内の話を承諾したのだろうと思いますが、京で謁見した丹後局の迫力に打ち砕かれ、沈痛な面持ちへと変わりゆくさまにこちらも悲しさが込み上げました。父に翻弄された大姫には、極楽浄土で冠者殿と睦まじく過ごしてほしいと視聴者の誰もが願っていることでしょう。

頼朝が「誰かが儂を、源氏を呪っている」と言い出したのが、本編のラスト2分。ここまで幽閉後の範頼は登場せず、もしやと気づいた瞬間、背筋が凍りました。範頼から見えない角度にいるピンぼけの善児、水を汲む範頼の後ろで音もなく倒れる村人夫婦、いつの間にか範頼の後ろにいる善児、そして範頼が振り返ると……恐怖が凝縮された1分間でした。村人と農作物を作るなどして穏やかに暮らしていたのに、完全に濡れ衣です。実際の死去についてわかっていない範頼については、できればそっとしておいてほしかったのですが、そんな生優しい脚本ではないことを改めて思い知らされた回でもありました。

大姫とは

大姫は、源 頼朝と北条 政子夫婦の長女。治承2年(1178年)頃に誕生したとされ、頼家・三幡(乙姫)・実朝の同母姉です。ここでは、大姫の生涯を紹介します

冠者殿(義高)との悲恋

寿永2年(1183年)春、父・頼朝と従弟で平家打倒のライバルだった源(木曽)義仲の関係が悪化。武力衝突寸前になり、義仲は嫡男・義高を人質として鎌倉へ送り、和議を図りました(表向きは、大姫の許嫁という名目)。

ところが、義仲は頼朝より先に入京。都の治安を回復できず、後白河院と対立し、後白河院が頼朝に「義仲追討の院宣」を下します。頼朝は異母弟の範頼と義経に義仲追討を命じ、大軍を率いて入京。寿永3年(1184年)1月、義仲は宇治川の戦いで敗走し、粟津の戦いで討たれました。

義仲が討たれたことで、義高の立場は悪化しました。このまま義高を生かしておけば将来の禍根になると考えた頼朝は、義高の処刑を決意。大姫はこの話を義高に伝えます。義高の同い年の側近・海野 幸氏を身代わりに、義高は女房に扮して脱出し、蹄に綿を巻いた馬に乗って逃走。

夜になって事が露見し、頼朝は義高を討ち取るよう命じます。数日後、武蔵国まで逃げた義高でしたが、現在の埼玉県狭山市の入間川のほとりで、郎党・藤内 光澄に討たれました(享年12歳)。

義高が討たれたことを知った大姫は、悲しみのあまり水も喉を通らないほどに憔悴。病に伏す娘を見た政子は、義高を討つよう命じた頼朝に怒りをぶつけ、「討ち取った男の配慮が足りなかったせい」として藤内 光澄は晒し首にされました。

病に伏し、心も深く傷ついた大姫を心配した政子は、義高の追善供養や祈祷など手を尽くしましたが、効果は見られず苦しみながら成長します。そんな中、頼朝は娘を後鳥羽天皇に入内させようとしますが計画は中止に。そこで建久5年(1194年)8月、頼朝と政子は頼朝の甥・一条 高能との縁談を娘に勧めるものの、大姫は拒絶。

翌建久6年(1195年)2月、東大寺再建供養に出席するために頼朝は政子・大姫・頼家と上洛します。再び後鳥羽天皇への入内を進める目的もありましたが、大姫は病から回復することなく、建久8年(1197年)7月に20歳の若さで亡くなりました。

範頼ゆかりの地

源 範頼は、久安6年(1150年)頃、源 義朝の六男として、遠江国蒲御厨(現在の静岡県浜松市)に誕生。頼朝の異母弟、義経の異母兄にあたります。妻は頼朝の側近・安達 盛長の娘(盛長の妻は比企尼の娘)でした。

修善寺(静岡県伊豆市)

空海が創建したと伝わる寺院。同寺の鬼門に鎮座する日枝神社の境内に、範頼が幽閉されたという信功院がありました。『吾妻鏡』には、幽閉後の範頼についての記載はありませんが、梶原 景時に攻められ自害したと伝えられています。

石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)

大正11年(1922年)10月に国の天然記念物に指定され、日本五大桜の一つに数えられている名木です。範頼は修善寺から逃れて生き延びたという伝説が各地にあり、北本市岩戸宿もその一つ。範頼がついていた杖が根付き、蒲冠者の名にちなみ「蒲ザクラ」と名付けられたとされています。



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三輪 都子

三輪 都子

コトのデザイン事務所/nocoto編集部ライター

日本百貨店協会認定ギフトアドバイザー資格所有

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